in my life

趣味についてひたすらアウトプットしていきたい

諸行無常

久しぶりの更新でいきなり重い話題だが、

「じいさんが死んだ」

父方のじいさんだ。僕は何人かいる孫の中でも、このじいさんから特にかわいがられていた。理由はいろいろあるだろうが、一番の理由は、バツグンにじいさんに似ていたからだろう。我ながら「今の動き、じいさんに似てるな」と思うくらい仕草が似ていたし。

もっとも、このじいさんは古典文法の権威であり、一昔前は古典文法の勉強法の本を出し、ちょっとしたベストセラーをこの世に送り出したような男。有名な歴史物語の現代語訳小説をライフワークとしていたし、勉強嫌いで生きてきた僕とは全く違う。当然、孫たちの成績にもうるさかったらしい。なぜ「~らしい」と書いたか?それは、僕にはなぜかうるさくなかったからだ。これをどう考えるかは個人の自由だが、とにかく僕はかなりかわいがられていた。

さて、勉強面以外の話をすると、このじいさんは背が高くひょろっとしていた。ばあさんの趣味だろうが、いつもオシャレなジャケットを着こなし、ときにはハットを被り、かなり「オシャレなじいさん」だった。見た目はオシャレだが、性格はひょうひょうとしていたので、女子大の教授だったじいさんは、きっとモテたことだろう。―僕?僕はガツガツしてるからなあ(苦笑)。

そんな自慢のじいさんだったが、2年前くらいから急にボケてしまった。認知症というやつだ。ライフワークとも言える歴史小説もとうとう書けなくなってしまったので、結局彼は老人ホームに入った。

「もう息子(僕の父)のこともわからないらしい」

そんな話を聞いたのは3週間前くらいだったろうか。それでも、まさか祖父の死が近づいてるなんてことは知らない僕は、普通に仕事をして休日は普通に遊んで、という風に過ごしていた。そんな矢先の先週末、兄からメールが入った。

「今日の4時10分にじいさんが亡くなったよ」

正直、実感が湧かなかった。悲しくもなかった。「ああ、そうか」―そう思うだけだった。

そして、一昨日お通夜が行われた。幸いなことに、うちは長生きの家系なのか、僕にとって人生で初めての葬儀だ。会場に入ると、正面にデカデカとじいさんの写真が飾られていた。そのとき、ようやく実感した。「あの、僕をかわいがってくれたじいさんはもういないんだ」と。涙が込み上げてきたが、でもこぼれ落ちはしなかった。じいさんの遺体も見た。「ろう人形みたいだな」―それが正直な感想だ。そのあと、みんなで食事をしながらじいさんの話をした。何を話したかは覚えてないが、飯が喉を通らない、なんてことはなかった。

昨日は告別式。会ったこともない親戚にも何人か会った。火葬場に行き、じいさんと最後の別れをした。2時間くらい経った頃かな、「火葬が終わった」との連絡が。そして、みんなで骨を拾ったのだが、これが一番ショックだった。当然だが、もう人間の形はしていない。「ここが○○の骨で~」とかいう葬儀屋の説明はあったが、正直、どうでもよかった。ああなってしまったら、それこそ「どこの馬の骨」が混じってようがわからないからだ。骨の感触も、火を通したからだろうか、ちょっと叩けば崩れそうな、意外とモロそうな感じがした。

こんな感じで淡々と式は行われた。号泣ということもなかったが、なんだか非常にショッキングな体験だった気がする。人間が人間の形でなくなる工程を見たからかな。悟ったことを言うようだが、

「人間って儚いな」

ってことを痛切に感じた。僕ももう28歳。20歳になったときは非常に嬉しかったが、最近、誕生日が嬉しいということもなくなった。こんなことを言ったら年上の人たちに怒られそうだが、死へのカウントダウンは確実に始まっている。「人間は、生まれてきたときから、死ぬために生きている」―これは何のマンガのセリフだったっけな。とにかく、このセリフがやけにリアルに感じられる今日この頃である。