一日遅れになるけど、尖閣諸島問題、大分動きがあったね。このブログでは、政治的な内容を極力書きたくないので、過激な発言は避ける。今回は、尖閣諸島問題から見る日中両国の教育について。
今回、両国間の教育の違いがよく出ていたと思う
譲歩を美としてきた日本と、譲歩しない中国
これ、中国の街を1分歩いてみれば、日本人なら誰でも気付くと思う。とにかく中国って歩きづらいのだ。誰もが広がって歩き、前から人が来てもどこうとしない。エスカレーターの前、乗り降りする人が大勢いる場所で、平気で立ち止まって話し出す。「譲歩」という教育を受けてない証だ。
日本だったらどうだろう?前者では、「狭い道では一列に」と、後者では、「人が大勢いるところでは立ち止まらない」と、誰もが幼少期に親や先生から習ったはずだ。こうやって書くと、「日本人って譲り合いもできて、素晴らしい民族なんだなぁ!」って思うかもしれないが、僕が書きたいのはそんなことではない。
日本人は、討論のときも譲歩してしまう
これは問題だと思うが、僕も日本の教育が染みついてしまっているので例外ではない。前学期の討論の授業中、堂々と討論を繰り広げる各国の精鋭の前で、僕ともう一人の日本人だけ、ほとんど発言できなかったっていうことがあった。そのとき僕ら二人が思ったのが、
「そういえば、日本で討論ってあまりやらなかったね」
だった。思い返すと、高校くらいのときに討論の授業があったはずだが、ほとんどの人間が真面目に討論をしてなかった気がする。もちろん僕も。なんか、「譲歩=美」としてきた僕らにとって、討論がかっこ悪く見えたんだろうね。これは、譲歩の教育が産んだ弊害だと思う。そしてこれが、
今回の船長釈放に繋がったのではないだろうか
って思うわけです。最初に書いたように、「譲歩を美とする日本」と「譲歩しない中国」が討論したら、勝つのはどっちか?なんて最初からわかっている。やりたい放題やられ、最終的に船長を手放し、やっと一件落着と思ったら、今度は謝罪に賠償。
ちょっとは譲れよ、中国(´ω`;)
ケツの毛までむしるっていうこういうことかと(´ω`;)
前学期の授業中、竹島を巡って、韓国人のクラスメートと気まずくなったことがある。そして、僕ともう一人の日本人が、そのときこっそり日本語で言ってたのが、
「そんなに欲しけりゃあげるのにね」
相手は違えど、日本政府は、これをリアルでやってしまったようなもの。でも、「譲歩=美」とする風潮にある日本で育った僕らに、政府を責める権利があるだろうか。きっと誰が首相でも、中国からのプレッシャーに負けて同じ結論出したと思うよ。
「首相はそんな世代じゃないでしょ?」なんていう野暮なツッコミはしないように。世代的に、かつてはバリバリ討論してただろうけど、大事なのは今の風潮。こんな風潮の中暮らしてたら、狼の牙も抜けるってものですよ(笑)。
ということで、どっかで教育改革した方がいいのかもしれないね。このままだと、ほんとに日本自治区
になっちゃうよ(笑)。